ゴルフバー 銀座のしくみ
「彼女が一〇〇〇ドル融資してくれたおかげで、私は最初のリサイタルを開くことができました」(一九七六年に営業開始したファースト・ウイメンズ・バンクは、東五七番街という恵まれた立地にありながら、女性向けの融資は行わなかった。
最終的に通貨監督局によって閉鎖され、FDーC(連邦預金保険公社)の手からスペンサー・ウイツテイの銀行が譲り受けたが、残った債権の処理問題はウイツティではなく、FDーCが抱えることになった)。
後にバンク・オブ・アメリカとなるバンク・オブ・イタリーは、当然、民族系銀行として最も有名だが、その伝統は生き残ってはいるが聞に隠れることも多い。
というのは連邦議会が、一つの民族だけを優遇することを成文法で禁止したからだ(ただ一つの例外がアフリカ系米国人の銀行で、アフリカ系米国人の借り手を優遇することを認められている)。
韓国系コミュニティでは銀行の融資を受けることを避け、母国にルーツのある自助的共同組合から借金する。
こちらは米国の銀行監査を満足させる必要がない。
対照的に台湾は、中国系移民や中国系米国人ビジネスマンの一部と取引している中国系銀行にとって、多かれ少なかれ公認の資金源となっていて、経営上の指示も出している。
だが、中国系銀行は新参者は歓迎しない。
香港・上海銀行は、それぞれイギリスでミッドランド・バンク、ニューヨーク州でマリン・ミッドランド銀行を所有していて、チャイナタウンにも二つの支店があり、通りを挟んで向かい合っている。
一つは標準中国語を話す人向け、もう一方は方言を話す人向けになっている。
民族集団の中で一番結束力の強いのがマイアミのキューバ系移民で、ごく少数の小規模銀行と、ファースト・ユニオンやサン・トラスト、パーネットといった大手の銀行持ち株会社の支店を主に利用している。
四二の支店を持ち、総資産が約五〇億ドルというパーネット・オブ・サウス・フロリダ銀行のカーロス・J・アーボレヤ副会長は、こう言う。
「我々の市場は、表向きは五一%、実際は五五%がヒスパニックだ。
当然、ヒスパニック社会の需要と特質に対応しなければならない。
普通の人やおっ母さんたち、純米国的なコミュニティ相手ではないんだ」。
ァーボレイヤの助手のパーパラ・ローズによると、キューバ系二世でさえヒスパニックの銀行の方を選ぶという。
「(彼らは)どっちの言語も完壁に話せるけど、買い物はスペイン語でする」のだそうだ。
だが、これこそが伝統的な、小都市の銀行業の姿なのだ。
「役に立つ関係を持つためには、相手の定期預金、貸出限度枠、商業用モーゲージ、資金管理、住宅用モーゲージ、年金プラン、個人退職年金や家族の小切手口座などを掌握しなければならない」のである。
大柄で灰色の口ひげが見事なアーボレイヤは、一九六〇年に、カストロ難民の第一陣として米国に来て、自分で銀行を聞いた。
一六年後、その銀行を売却してパーネット・デイド・カウンテイに移り住み、ジャクソンピルに本社のある持ち株会社パーネットがマイアミに持つ五つの資産の内の一つを任された。
彼は当時を回想して、こう言う。
「私がこの銀行に来れたのは、私の銀行を開く金を借りたことがあるからだ。
私の周りに彼らを知っている人はいなかった。
パーネットに行こうと思うんだと友人に話したら、『パーネット・オフィス・システムズ』かい?と聞かれたものさ」。
今やアーボレイヤは十分有名で、パーネット社の三三階建の高層ビルが建っている通りはアーボレイヤ・プラザと呼ばれている。
ちなみにマイアミで通用する言葉はスペイン語だけではない。
ハイチ系の企業家はフランス語を話す銀行家を欲しがっているし、チェース・フエデラル・セイピングズの頭取だったトム・クーパーは、当時の話として、マイアミ・ピーチのアール・デコ支店ではドイツ語を話す取締役が必要だったという。
サウス・ピーチの開発に使われた資金はドイツ・マネーだったからだ。
借り手になりうる人々の社会的地位と、銀行家のそれとのギャップは、銀行の融資担当者にさまざまな人聞を雇うか、少なくともスペシャリストとしての仕事を割り当てれば、埋めることは多少は可能だった。
こうすれば融資担当者は当の産業について感触をつかめるからだ。
バンク・オブ・ボストンは映画産業に融資したが、その際、サージ・セミネンコは米国人が何を見たがっているのかについて自分独自の考えを磨きに磨いた。
次いでー28号線沿いの初期のエレクトロニクス産業に融資を行ったが、それはMITやハーバードがエレクトロニクスの先駆者であり、その産業の保護者でもあったからだ。
テキサス・コマース銀行は最初、綿花農家に、次いで牧畜業者に、さらに石油産業に進出した。
コンピューターの画面で得られる情報だけで、融資相手のことを知るのに十分なのかどうかは、決して明らかでない。
スペンサー・ウイツティのような昔風の銀行家なら、誰かが工場を実際に訪れて「タイヤ・を蹴って」みるまでは、決して融資を許可したりはしないだろうAM不動産融資は今も昔も最大の危険を伴う。
銀行の不動産担当部門がうまくいっているかどうかを見るには、その部署に実際に行き、営業担当のうち現地に行かず事務所に残っているのが何人いるかと、その連中の靴の状態を調べればいい。
締麗な靴をはいていれば、不動産融資はうまくいっていないだろう。
一九八五年から九一年まで、シテイコープは商業地の投資家や建築業者への融資を二倍に増やしたが、すでに一九九一年後半までに、それらの業者は破産したか、破産寸前になっていた。
担保としての商業地は総額で一二〇億ドルと、同行の総資本額をはるかに超えたが、事実上、そのほとんどは融資額を割っており、母体を守るためにできることはほんのわずかしかない状態だコンサルティング専門のマツキンゼー社のローウエル・ブライアンは何か上の空の様子で、こう言ったものだ。
「ピルというのは一度建て始めたら、完成させなければ駄目だ。
土地は、穴が空いていたり、基礎が打ち込まれていたりするより、まっさらの方が価値がある。
半分だけ建ったピルなんでものは。
価値がないどころかマイナスだ」。
シティバンクが二億八〇〇〇万ドルの建設費を融資した(しかもJ・リード会長自身が、このピルが建築費を返済できそうもないと判明した時に、実際に見に行っているのだが)ブロードウェイ一五四〇番地のタイムズ・スクエアのオフィス・タワ!とシティバンクの関係について、ジエリー・アドラーは、楽しい本の中で、「ブラジルを抵当流れ処分にするほうが、まだ簡単だったか」と書いている。
融資担当者は必ず経営コンサルタントも務めていた。
帳簿がきちんとしたものになるように、その産業の「模範的事例」を持ち歩いて次々と借り手のところを回ったのである。
一九七〇年代に、シテイコープが経営コンサルタント会社を買収したことがあったが、その際FRBから、買収を思いとどどまるよう圧力を受けた。
経営コンサルタントは「銀行業に付随する」事業ではないから、というのが理由だった。
当時のシテイコープのCEO、ウオルター・リストンは、かんかんになった。
「人類最初の経営コンサルタントは、ユーフラテス文明時代の銀行家だ。
在庫品の周りに壁を造りなさい、とアドバイスしたのさ。
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